大判例

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東京高等裁判所 平成4年(ネ)341号 判決

東京都品川区北品川6丁目7番35号

原告

ソニー株式会社

代表者代表取締役

大賀典雄

訴訟代理人弁護士

味岡良行

同弁理士

役昌明

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官 深沢亘

指定代理人

豊岡静男

田辺秀三

山田益男

左村義弘

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第1  当事者の求めた裁判

1  原告

「特許庁が平成1年補正審判第50072号事件について平成2年2月22日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

2  被告

主文同旨の判決

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

出願人 原告

出願日 昭和56年6月4日(昭和56年特許願第86290号)

発明の名称 「集光レンズ」

拒絶理由通知 昭和63年12月20日

手続補正 平成元年3月24日(以下、「本件補正」という。)

補正却下決定 平成元年5月31日

審判請求 平成元年8月24日(平成1年補正審判第50072号事件)

審判請求不成立審決 平成2年2月22日

2  本願発明の特許請求の範囲(別紙参照)

(1)本件補正前の特許請求の範囲

光軸をz軸とし、平行光の入射する第1面及び第2面の頂点を原点とするx、y、z直角座標系において、〈省略〉

但し、〈省略〉

c:頂点での内接球面の曲率

k:円錐定数

d、e、f、g:夫々4次、6次、8次及び10次の展開係数

で表される軸対称一般非球面形状の第1面及び第2面からなる両凸単レンズで構成し、上記第1面の頂点での内接球面の曲率半径r1(mm)を

〈省略〉

(以下、1.1≦{(n2-1)/n2}・(r1/F)≦1.2と表し、「当初の条件式」という。)

但し、n:入射光の波長におけるレンズ媒質の屈折率

F:焦点距離(mm)

のごとく選定し、レンズ厚D(mm)を

{(n-1)/n}・(D/r1)<1-2.8/F

のごとく選定したことを特徴とする集光レンズ。

(2)本件補正後の特許請求の範囲

光軸をz軸とし、平行光の入射する第1面及び第2面の頂点を原点とするx、y、z直角座標系において、

〈省略〉

但し、〈省略〉

c:頂点での内接球面の曲率

k:円錐定数

d、e、f、g:夫々4次、6次、8次及び10次の展開係数

で表される軸対称一般非球面形状の第1面及び第2面からなる両凸単レンズで構成し、上記第1面の頂点での内接球面の曲率半径r1(mm)を

〈省略〉

(以下、1.1≦{n2/(n2-1)}・(r1/F)≦1.2と表し、「補正後の条件式」という。)

但し、n:入射光の波長におけるレンズ媒質の屈折率

F:焦点距離(mm)

のごとく選定すると共に、レンズ厚D(mm)を、作動距離が2mm以上となるごとく選定したことを特徴とする集光レンズ。

3  審決の理由の要点

(1)本件補正の却下決定の理由は、「補正後の特許請求の範囲に記載された条件式は、願書に最初に添付した明細書又は図面に記載されておらず、かつ、同明細書又は図面の記載からみて自明のこととも認められないので、この補正は明細書の要旨を変更するものと認める。したがって、この補正は特許法53条1項の規定により却下すべきである。」というものである。

(2)上記条件式について、願書に最初に添付した明細書又は図面には、特許請求の範囲に、

1.1≦{(n2-1)/n2}・(r1/F)≦1.2

明細書4頁に、

1.1≦{(n2-1)/n2}・(r1/F)≦1.2 (2)

と記載されているだけであり、補正後の条件式、

1.1≦{n2/(n2-1)}・(r1/F)≦1.2

は記載されていない。

(3)審判請求人(原告)は、次の理由により願書に最初に添付した明細書に記載された当初の条件式の中の(n2-1)/n2は正しくはn2/(n2-1)とすべきところを誤記したものであると主張する。

第1の理由は、「光学」の98頁ないし100頁に記載される周知の光学理論及び明細書の記載から補正後の条件式は自明であるというものである。しかしながら、願書に最初に添付した明細書によれば、当初の条件式(2)は明細書4頁に記載される条件式(1)で表わされる軸対称一般非球面形状の第1面及び第2面からなる両凸レンズに対する内接球面の曲率半径r1を規定したものであるが、上記「光学」の該当頁には一般単レンズのコマ収差のない条件が記載されているだけであって、この記載と願書に最初に添付した明細書又は図面の記載から上記補正後の条件式が自明であるとは到底認められない。

第2の理由は、願書に最初に添付した明細書7頁の表における数値を当初の条件式(2)に代入した場合にはこの式を満足しないが、補正後の条件式(2)に代入した場合にはこの式を満足するというものである。しかしながら、補正後の条件式(2)が表の数値の代入に対して式を満足したからといって、この事実のみによって当初の条件式は、正しくは

1.1≦{n2/(n2-1)}・(r1/F)≦1.2であるとは、直ちに断定することはできない。

(4)したがって、本件補正は、願書に添付した明細書の要旨を変更するものであり、特許法53条1項の規定により本件補正を却下した原審の決定は妥当なものである。

4  審決の取消事由

審決の理由の要点(1)、(2)は認める。同(3)のうち、上記「光学」の該当頁には一般単レンズのコマ収差のない条件が記載されているだけであって、この記載と願書に最初に添付した明細書又は図面の記載から上記補正後の条件式が自明であるとは到底認められないとの点、及び、補正後の条件式(2)が表の数値に対して式を満足したからといって、この事実のみによって当初の条件式は、正しくは

1.1≦{n2/(n2-1)}・(r1/F)≦1.2であるとは、直ちに断定することはできないとの点を争い(但し、「光学」の該当頁には一般単レンズのコマ収差のない条件が記載されていること自体は認める。)、その余は認める。

(1)誤記であることの明白性

(a)本願明細書には、当初の条件式の説明として、「光学式再生装置に使用される対物レンズに、本発明を適用する場合、原則的には軸上収差のみを補正すれば良いが、入射光束の方向誤差をある程度許容するため、軸外収差を例えば視野高で0.1mm程度まで補正するのが望ましい。かかる領域で発生する収差は大部分球面収差とコマ収差である。これら収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するために課せられた第1面(1)の内接球面の曲率半径に対する条件式が上述の(2)式である。」との記載があり、同記載からみて、第1面(1)の内接球面の曲率半径に対する条件式は球面収差とコマ収差を補正するための条件式でなければならない。

光学技術者の常識として、レンズの球面で発生する収差は球面の屈折力の関数であることが知られており(収差論)、その球面の屈折力は(n-1)/r1で与えられるから、一般に、収差を一定に保つためには、屈折率の高いレンズほど曲率半径を大きくすればよい。

ところで、レンズの屈折率nを横軸にとり、焦点距離Fで規格化された第1面の内接球面の曲率半径r1/Fを縦軸にとった場合、補正後の条件式の満たす曲率半径r1/Fの範囲は、屈折率nが増加するにつれて増加するのに対し、当初の条件式の満たす範囲は、屈折率nが増加するにつれて減少する。したがって、補正後の条件式の満たす曲率半径の範囲は、前記原則に則して、屈折率が高くなるほど大きくなり、一方、当初の条件式の満たす曲率半径の範囲は、前記原則に反して、屈折率が高くなるほど小さくなって、光学技術者の常識にそぐわない。

(b)本願明細書7頁に記載されている表の各数値を当初の条件式に代入したとき、この条件式を満たさない。

(c)以上によれば、当業者であれば、本願明細書における当初の条件式を誤記ではないかとの疑念をもって本願明細書に接することは明白であり、当初の条件式の誤記は明白であるといえる。

(2)補正後の条件式の明白性

本願発明は、薄肉球面単レンズのコマ収差を補正する周知のフラウンホーファー条件式

{n2/(n2-1)}・(r1/F)=1

(以下、「薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式」という。)を基礎として、球面収差とコマ収差を補正することを目的とし、第1面の頂点での内接球面の曲率半径r1を選定するに当たり、上記フラウンホーファー条件式の満たす範囲を1.1ないし1.2に選んだところに特徴がある。したがって、当初明細書において「上記第1面の頂点での内接球面の曲率半径r1(mm)を

1.1≦{n2/(n2-1)}・(r1/F)≦1.2のごとく選定し」と記載すべきであった。すなわち、条件式の不等号で挟まれた項を補正後の条件式のように上記フラウンホーファー条件式の左辺をそのまま記載すべきであった.しかるに、原告は、当初明細書において、この不等号で挟まれた項を{(n2-1)/n2}・(r1/F)と当初の条件式のように誤って記載した。

しかし、この誤りは明白である。

(a)すなわち、被告主張のように、一般的なフラウンホーファー条件式は、ザイデル収差論により裏付けられたフラウンホーファーの条件から導き出されたもので、周知の式であり、更に甲第5号証、同第7ないし第9号証などには、この条件式を薄肉球面単レンズに適用した場合における近軸領域でコマ収差のない条件を表す式が記載されており、これらの条件式はレンズ設計に関係する当業技術者間においては従来より周知の式である。また、補正後の条件式の基礎となった、上記薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式、すなわち

{n2/(n2-1)}・(r1/F)=1そのものは記載されていないが、同式を導き出し得る程度に記載されている文献として、甲第10ないし第12号証がある。

(b)一般に、非球面レンズとこれに近似する球面レンズとの差は極めて僅かである.また、レンズに取り込まれる光束の径が絞り込まれていくと、非球面レンズがこれに近似する頂点での内接球面レンズに連続的に近づいていく。一般に、球面レンズは非球面レンズの特殊な場合としてこれに含まれることは本願明細書に記載されている軸対称一般非球面公式より明らかである。すなわち、非球面レンズは球面レンズを包含する上位概念であって、両レンズは別ものではない。

更に、前掲甲第5、第7ないし第9号証に記載された薄肉球面単レンズが近軸領域でコマ収差のない条件を表すフラウンホーファー条件式が非球面レンズにも共通することは、甲第6号証の1、2及び同第13号証の記載からも明らかなように、従来から知られており、また、薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式を非球面レンズの前面の頂点に対して適用することは、甲第13号証に記載されているとおり、従来より行われていたことである。

(3)本件補正の内容は、補正前の条件式の分子と分母を逆転させたというものである。そして、願書に最初に添付された明細書に記載された本願発明の目的は、「NA(ニューメリカルアパチャ)が0.45~0.50、作動距離が2mm以上となり、近軸付近の収差が補正された、小型軽量の集光レンズを提案せんとする」ものであり、その作用効果は、「(球面収差とコマ収差)のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正」し、「第1面(1)の内接球面の曲率半径として上述の(2)式を満足するものを選べば、第1面(1)及び第2面(2)の非球面係数は高次収差の補正に効果的に割り当てられる」というものである。

上記のような目的、作用効果並びに明細書及び図面に記載された実施例に照らせば、当業者ならば、収差論やフラウンホーファー条件式に基づいて、科学技術上の常識として本件補正の内容を当然の補正として了解できると認められる。

そもそも、フラウンホーファーはコマ収差のないレンズを設計し、後世にザイデルがフラウンホーファーの設計したレンズのコマ収差除去法を解析し、収差論として理論づけた。このように、経験的に得た設計データを集大成したものが公理として一般式化される.本願発明においても、実験によって本願明細書の表に示すとおりの非球面レンズのコマ収差を除去する設計データを得ており、この設計データを得た段階において発明はほぼ完成しているのである。そして、この設計データを収差論に基づいて一般式化したものが補正後の条件式なのである。本願発明における設計データより一般式化する思考過程はフラウンホーファーよりザイデルに至る思考過程と共通しており、本願発明における誤った補正前の条件式は発明の本質に影響するものではなく、単に表現を誤ったにすぎない。

以上のとおり、本件補正は明細書の要旨を変更するものではなく、審決は特許法53条1項の判断を誤ったものであるから取り消されるべきものである。

第3  請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3は認める。同4は争う(但し、(2)(a)は、甲第10ないし第12号証に補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式を導き出し得る程度に記載されているとの点を除き、その余は認める。)。審決の認定、判断は正当であり、審決を取り消すべき違法はない。

2(1)誤記であることの明白性について

(a)一般的に、レンズ系を構成する個々の面の屈折力が平均して弱ければ、光線の屈折が少なくなる関係でレンズ系全体の収差も少なくなる傾向にあることは事実であるが、収差を一定に保つためには屈折率の高いレンズほど曲率半径を大きくすればよいとの原告のいう原則は絶対的なものではなく、補正前の条件式が原告のいう該原則に反しているとしても、そのことのみで該式が明白な誤記であるということはできない。

(b)一般に、レンズ系に関する明細書においては、実施例における数値自体に誤記がある例も多く、本件のように実施例における数値が当初の条件式を満たさない場合に、条件式が誤記なのか数値が誤記なのかは直ちに判断できない。また、願書に最初に添付した明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の項には、当初の条件式とともに条件式

{(n-1)/n}・(D/r1)<1-2.8/F

(ただし、Dはレンズ厚)が記載されていたが、この条件式に本願明細書7頁に記載されている表の各数値を代入したときにも、該条件式は成立しないものであった.したがって、上記表の各数値が正しいとすれば、特許請求の範囲に記載された条件式が二つとも誤記であるということになり、表の数値のほうが誤記である可能性は否定できず、当初の条件式が誤記であることは明白ではない。

(2)補正後の条件式の明白性について

(a)フラウンホーファー条件式は、ザイデルの導いたコマ収差が発生しないための条件式であり、一般のレンズ系においては

〈省略〉

と表されており(以下、「一般的なフラウンホーファー条件式」という。)、この式は周知である。そして、上記の一般的なフラウンホーファー条件式から薄肉球面単レンズに対応したフラウンホーファー条件式を導き出すことは可能であり、原告が引用する甲第5、第7ないし第9号証にも一般的なフラウンホーファー条件式から導き出された薄肉球面単レンズに対応する条件式の記載が各々あるが、これらのいずれにも原告が主張する補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式は記載されていない。したがって、一般的なフラウンホーファー条件式が周知であり、これを変形すれば補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式が導き出せるとしても、そのことの故に同式が周知であるということはできない。

(b)一般に、非球面は、非球面係数が0のとき球面と一致すること、口径比無限小の極限では球面に一致することから、その形状は球面に類似しているといえるが、レンズの収差を補正する観点からは、例えば球面単レンズでは球面収差は補正できないが非球面単レンズはそれができるなど、両者に差異があることも事実である。したがって、球面レンズに対して収差補正に効果のある条件がそのまま非球面レンズに適用できるか否かは明確ではない。

フラウンホーファー条件はザイデル収差の領域におけるコマ収差を補正するための条件であるのに対し、更に高次の収差の領域を含めてコマ収差の補正をするための条件は正弦条件であって、両者は同じものではない。甲第6号証では、レンズの諸元を正弦条件が満足されるように決定しているのであり、このようにして決定したFA(前面非球面アプラナート単レンズ)及びBA(後面非球面アプラナート単レンズ)において口径比を無限小にすると両者は薄肉の球面単レンズになり、正弦条件を満足するための条件式はフラウンホーファー条件式になるというにすぎない。また、甲第13号証は、両面非球面アプラナート単レンズの形状は前面の頂点の曲率半径がいかなるものでも計算できるので、その計算例として三種類の前面曲率半径の単レンズについて言及したものであり、本願発明が対象とする両面非球面一般単レンズの球面収差及びコマ収差を補正する場合にフラウンホーファー条件式を適用することを示す証拠とはいえず、レンズの前面の頂点の曲率半径を薄肉のコマなし球面単レンズと一致させるべきである。すなわち、薄肉球面単レンズ用条件式を非球面単レンズのコマ収差のない条件として同一の条件式を適用すべきことを示す証拠ともいえない。

(3)願書に最初に添付した明細書又は図面には、当初の条件式について、球面収差とコマ収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するために課せられた条件式である旨が説明されているのみで、当初の条件式を導き出す過程についてはなんら記載されておらず、また、一般的なフラウンホーファー条件式や補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式も記載されていない。

本件補正のように、発明を限定する極めて重要な要素である条件式を変更する場合であって、該補正が要旨の変更でないといえるためには、願書に最初に添付された明細書又は図面の記載から補正前の条件式が補正後の条件式の誤記であることが自明であることが必要である。これを本件補正についていえば、〈1〉当初の条件式が誤記であることが明白であること、〈2〉補正後の条件式又は補正後の条件式の基礎となったフラウンホーファー条件式が周知の式であり、両面非球面一般単レンズの球面収差及びコマ収差を補正する場合にはこれらのいずれかの式を適用することが技術常識であることがいえなければならない。しかしながら、本件補正はこれらのいずれをも満たしていない。

なお、本願発明は、実験によって非球面レンズのコマ収差を除去する設計データを得た段階において発明はほぼ完成しているので、当初の条件式は発明の本質に影響しない旨の原告の主張は、発明を設計データそのものに限定し、特許請求の範囲にも該設計データをそのまま記載するならば正しいといえるが、本願発明は、特許請求の範囲の記載からみて、発明を条件式によって限定し、設計データは該条件式を満足する単なる例示としていることは明らかであるから、条件式が発明を限定する極めて重要な要素となっており、原告の主張は正しくない。

第4  証拠関係

本件記録中の書証目録の記載を引用する。

理由

1  請求の原因1ないし3(特許庁における手続の経緯、本願発明の特許請求の範囲(本件補正前の特許請求の範囲及び本件補正後の特許請求の範囲)、審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。

2  願書に最初に添付した明細書及び図面に記載された本願発明の概要

成立に争いのない甲第2号証(願書に最初に添付した明細書及び図面。以下、「当初明細書」という)によれば、本願発明は、例えば光学式オーディオ又はビデオ再生装置の対物レンズに適用して好適な集光レンズを得ることに関するものであること、光学式オーディオ又はビデオ再生装置のトラッキング方式としては、従来ガルバノミラーを回動させる方式と対物レンズ自体を振らせる方式とがあり、そのうちの対物レンズ自体を振らせる方式では、対物レンズへの入射光束を光軸に対し平行にし、対物レンズ自体を光学式記録媒体の記録トラックに対し直角に平行移動させて対物レンズの光束集光点を振らせるようにしているため、対物レンズの軸外収差の補正は不要であるが、対物レンズとして小型、軽量なものが要求されるところ、従来の対物レンズは4ないし5枚の組レンズで構成していたので、大型となり、重い欠点があったこと、しかして、本願発明は、NA(ニューメリカルアパーチャ)が0.45~0.50、作動距離が2mm以上となり、近軸付近の収差が補正された、小型軽量の集光レンズを提案せんとするものであり、球面収差とコマ収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するため、第1面(1)の内接球面の曲率半径として、条件式

1.1≦{(n2-1)/n2}・(r1/F)≦1.2

を満足するものを選べば、第1面(1)及び第2面(2)の非球面係数は高次収差の補正に効果的に割り当てられ、比較的小さい非球面度で回折限界の光学性能を実現することができ、レンズ製作の容易性につながる作用効果をもたらすとするものであることが認められる。

3  取消事由に対する判断

(1)本件補正は当初明細書中の特許請求の範囲に記載された条件式

1.1≦{(n2-1)/n2}・(r1/F)≦1.2

(当初の条件式)を

1.1≦ {n2/(n2-1)}・(r1/F)≦1.2

(補正後の条件式)に変更する内容を含むものであること、当初明細書には、特許請求の範囲及び明細書4頁に当初の条件式が記載されているだけであり、補正後の条件式が記載されていないことについては当事者間に争いがない。そこで、本件補正は明細書の要旨の変更として許されないものであるか否かについて検討する。

(2)当初の条件式が誤記であることの明白性の主張に対する判断

(a)まず、当初の条件式が設定された技術的意義についてみるに、前掲甲第2号証によれば、当初明細書には、当初の条件式の説明として、「光学式再生装置に使用される対物レンズに、本発明を適用する場合、原則的には軸上収差のみを補正すれば良いが、入射光束の方向誤差をある程度許容するため、軸外収差を例えば視野高で0.1mm程度まで補正するのが望ましい。かかる領域で発生する収差は大部分球面収差とコマ収差である。これら収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するために課せられた第1面(1)の内接球面の曲率半径に対する条件式が上述の(2)式である。」との記載のあることが認められ(5頁3行ないし13行)、同記載からみて、該条件式は球面収差とコマ収差を補正するための条件式であることが推認される。しかしながら、同記載から明らかなように、当初明細書には、当初の条件式が、球面収差とコマ収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するために課せられた条件式である旨が説明されているだけであって、該式が導き出された過程等については何の記載もなく、いわば該式のみが前後の脈絡もなく唐突に記載されているものであり、前掲甲第2号証によるも、他に該式の導き出された過程等を認めるに足りる記載は当初明細書中にはみあたらない。

したがって、仮に、光学技術者の常識として、一般に、収差を一定に保つためには、屈折率の高いレンズほど曲率半径を大きくすればよいとの原則があり、レンズ設計に際してはこの原則に従うのが技術者の常識であるとしても、そのことのみをもってしては、上記当初の条件式が直ちに誤記であることが明白であるとはいい難い。

(b)しかしながら、前掲甲第2号証によれば、当初明細書7頁には本願発明の構成に従った実施例として第1ないし第3実施例の数値例が表に示されていることが認められるところ、同表に示された第1実施例の数値(n=1.6、r1/F=0.6752)、第2実施例の数値(n=1.6、r1/F=0.6883)及び第3実施例の数値(n=1.6、r1/F=0.6870)を当初の条件式の

{(n2-1)/n2}・(r1/F)に代入すると、それぞれの式の値は、0.4112、0.4192、0.4184といずれも当初の条件式を満足するものではないことが認められる。

ところで、実施例における数値が条件式を満たさない場合に、条件式が誤記なのか数値が誤記なのかは直ちに判断できないことは被告の主張するとおりである。しかしながら、上記のように、実施例として記載された数値例の全ての数値が条件式を満たさないような場合にあっては、これら数値例の数値の全てが誤記であると考えるよりは、むしろ条件式に誤記があるのではないかと考えるのが自然であり、かかる観点からすれば、当初の条件式自体が誤記であることは明らかであると認めるのが相当である。

(3)補正後の条件式の明白性の主張に対する判断

(a)原告は、本願発明は、薄肉球面単レンズのコマ収差を補正する周知のフラウンホーファー条件式(薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式)を基礎として、同フラウンホーファー条件式の満たす範囲を1.1ないし1.2に選んだところに特徴があり、本件補正は、当初明細書において本願発明の前提をなす周知の薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式の左辺を明らかに誤って記載したため、これを改めた単なる誤記の補正であることが明白である旨主張するので、以下検討する。

〈1〉 当初明細書には、当初の条件式が、球面収差とコマ収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するために課せられた条件式である旨が説明されているだけであって、該式が導き出された過程等については何の記載もなく、いわば該式のみが前後の脈絡もなく唐突に記載されているものであることは前認定のとおりであるから、当初明細書に記載された事項のみからは、直ちに当初の条件式が補正後の条件式を誤って記載したものと認めることはできない。

〈2〉 次に、成立に争いのない甲第5号証(久保田広著「光学」・株式会社岩波書店1964年3月31日発行、92ないし100頁)によれば、コマ収差があると、点光源の像は彗星のように尾を引いたものになること、コマ収差は、軸上の点の像が非点収差、球面収差がなく結像していても、軸から離れた点の像は輪帯により倍率が異なるために主光軸による結像と同じ高さに結像しないためと考えられ、球面収差が位置の収差であるのに対し、コマ収差は倍率の収差と考えられること、及び、倍率の収差すなわちコマ収差がない条件は、もとザイデルによって球面収差がないものとして導かれたフラウンホーファー条件式と呼ばれる条件式

〈省略〉

(一般的なフラウンホーファー条件式)によって表されていたが、その後アッベによってより一般的なコマ収差のない条件式〈省略〉(但し、n:屈折面前方での屈折率、n':屈折面後方での屈折率、u:屈折面前方での光束が光軸となす角、u':屈折面後方での光束が光軸となす角、β:倍率)が表され、これは正弦条件と呼ばれていることが認められる。そして、上記一般的なフラウンホーファー条件式自体がレンズ設計の技術分野において周知の条件式であることについては当事者間に争いがない。

上記甲第5号証、及び、いずれも成立に争いのない同第7号証(M.Born著「OPTIC」・Springer Verlag,1932、105頁)、同第8号証(M.Born&E.Wolf著「Principles of Optics」・Pergamon Press,初版1959、第5刷第5.6章)及び同第9号証(草川徹・横田英嗣訳「光学原理Ⅰ」・東海大学出版会1974年10月25日発行、第5.6章)によれば、同第5号証には一般的なフラウンホーファー条件式は薄肉球面単レンズの場合に

〈省略〉

と表すことができることが記載され(100頁09行)、同第7号証には一般的なフラウンホーファー条件式は薄肉球面単レンズの場合に

〈省略〉

と表すことができることが記載され(105頁19行)、更に、同第8、第9号証には一般的なフラウンホーファー条件式は薄肉球面単レンズの場合に

〈省略〉

と表すことができることがそれぞれ記載され(同第8号証229頁14行、同第9号証311頁15行)ていることが認められるところ(なお、r1は曲率半径、nは屈折率、s1及び1/σはレンズ第一屈折面よりの物体距離、ψ、ρ及びDは焦点距離の逆数)、これらの各式において、焦点距離の逆数であるψ、ρ及びDを1/Fと表示し第一屈折面よりの物体距離を無限大として式を変形する(すなわち1/s1及びσを限りなく零に近づける)各式に代入したうえ各式を変形すると、これらの各式から補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式である

{n2/(n2-1)}・(r1/F)=1

が導き出されることが認められる。

しかしながら、一般的なフラウンホーファー条件式は、もともと薄肉球面単レンズの場合に限定されたものではなく、より広範な条件式であるのに対し、上記のように導き出された薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式は、薄肉球面単レンズに限定した場合のフラウンホーファー条件式であるが、当初明細書には、当初の条件式が、球面収差とコマ収差のうち、近軸領域で発生する三次収差を補正するために課せちれた条件式である旨が説明されているだけであって、該式が導き出された過程等については何の記載もないことは前認定のとおりであるから、当初の条件式を薄肉球面単レンズに限定した場合のフラウンホーファー条件式と関連付けて理解することは当業者といえども困難である。のみならず、上記のように補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式そのものは、薄肉球面単レンズに限定した場合のフラウンホーファー条件式であり、しかも同条件式自体は前掲甲第5、第7ないし第9号証に記載されておらず、これら甲号各証にそれぞれ記載されている式を所与の条件の下に変形したもので、いわば理論的に導き出されたものにすぎないから、補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式すら当業者にとって周知のものと認めることはできないものというべきである。成立に争いのない甲第10ないし第12号証も補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式の周知性を裏付けるのに充分ではなく、その他本訴に提出された全証拠によるも同周知性を認めることができない。

まして、本願発明は、当初明細書の特許請求の範囲の記載からみて、両面非球面単レンズに関する発明であるから、球面レンズに関する同条件式を非球面単レンズに結び付けること自体も当業者に対し期待することは無理というほかないのである。

もっとも、非球面は非球面係数が0のとき球面と一致すること、及び、口径比無限小の極限では球面に一致することから、その形状は球面に類似していることは被告も争わないところである。そして、いずれも成立に争いのない甲第6号証の1(吉田正太郎「特に口径比の大きい非球面アプラナート・レンズに関する計算(Ⅱ)」・東北大学科学計測研究所報告6巻1号、科学計測研究所昭和32年12月13日発行)及び同第13号証(吉田正太郎「特に口径比の大きい非球面アプラナート・レンズに関する計算(Ⅲ)」・東北大学科学計測研究所報告6巻2、3号、科学計測研究所昭和33年3月31日発行)によれば、甲第6号証の1には、式r1={(n2-1)/n2}・f ((23.7)が示され(112頁17行)、また、「即ち、FAもBAも、口径比無限小の極限に於ては、(23.7)、(23.8)の両式で与えられるr1とr2を有する、薄肉単レンズとなる。」との記載(113頁2行ないし3行)及び「口径比が無限に小さくなった極限に於ては、第2章に記した前面非球面単レンズFAと、第4章に記した後面非球面単レンズBAと、第13節のcomaの無い球面レンズとは皆一致し、その両面の曲率半径は(23.7)、(23.8)の両式で表わされる。」との記載(114頁1行ないし3行)のあることが認められ、同第13号証には、「前面の頂点の曲率半径(r1)。が厚肉のcoma無し球面レンズと一致するような完全アプラナート単レンズをAA-Lと名付け、同じく(r1)。が薄肉のcoma無し球面レンズと一致するものをAA-Rと名付ける。」との記載(145頁2行ないし4行)及び「AA-Rの要素の計算は簡単で、(r1)。は(23.7)式で直ちに求められる。」との記載(156頁29行)のあることが認められ、これらの記載は、薄肉球面単レンズが近軸領域でコマ収差のない条件を表すフラウンホーファー条件式は非球面レンズにも共通するものであり、同式は補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式が非球面単レンズの前面の頂点の曲率半径の計算式として使用し得ることをも開示もしくは示唆しているものと認めることができるものである.

しかしながら、これらが開示されている前掲甲第6号証の1、2及び同第13号証は、いずれも本願の出願日より22年ないし24年以前に発行された文献で、いずれもその奥付に定価の表示のないところからみて一般に市販されておらず、また、その内容が東北大学科学計測研究所関係者のみの報告に係るものであるところからみて、上記甲号各証は同種の研究を対象とする限られた範囲に頒布されたものと推認され、加えて、上記甲号各証発行以後これに記載されたものと同種の研究またはこれに基づいて更にこれを発展させた研究が発表されたことを認めるに足りる証拠も見いだし得ないのである。かかる事実を勘案すれば、前掲甲第6号証の1、2及び同第13号証に記載された前記技術的事項をもって当業者において周知であると認めるのは困難であるというべきである。

加えて、上記甲第6号証の1及び同第13号証並びに成立に争いのない同第6号証の2(著者等については同第6号証の1に同じ)によれば、同第6号証の1には「この章では、前面を非球面にした単レンズに就いて記す。先ず、かようなレンズの前面の形状、前面と球面との差、前面に最も近い楕円面との差、正弦条件の不満足量などの計算式を導き、次に、その主な計算結果を記載する。」との記載(19頁下から5行ないし下から3行)及び「この章では、後面を非球面にしたアプラナート単レンズBAについて述べる。これらのレンズもまた、FAと同様に、球面収差は皆無であり、周辺部に於て正弦条件を満足する。BAの要素や、後面の形状や、正弦条件などの計算式を導き、これを用いて実際に計算した結果を示す。」との記載(92頁1行ないし4行)のあることが、上記甲第6号証の2には「FAが、レンズ周辺部に於て正弦条件を満足するためには、……」との記載(22頁4行)のあることが、上記甲第13号証には「しかし肉厚は0ではないから、(s2)。、(r2)。は(7.8)自至(7.11)の諸式で求めなければならぬ。」との記載(156頁29行ないし30行)があることがそれぞれ認められ、これら記載によれば、甲第6号証の1、2及び同第13号証の甲号各証は、あくまでもレンズの諸元は正弦条件が満足されるように決定することを基本としたうえで、このようにして決定したFA(前面非球面アプラナート単レンズ)及びBA(後面非球面アプラナート単レンズ)において口径比を無限小にすると両者は薄肉の球面単レンズになり、正弦条件を満足するための条件式はフラウンホーファー条件式になるということを示し、また、AA-R(薄肉の両面非球面アプラナート単レンズ)の前面の頂点の曲率半径(r1)。は補正後の条件式の基礎となったフラウンホーファー条件式(薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式)を用いても簡単に計算できることを示したにすぎず、これら記載をもって、両面非球面一般単レンズの球面収差及びコマ収差を補正する場合に、上記正弦条件に代えてフラウンホーファー条件式を適用することができることを示す証拠であるとまでは認めることができない。

(b)本願発明は、本願明細書の全記載からみて、実験によって非球面レンズのコマ収差を除去する設計データを得たうえ該データから条件式を設定し、発明を条件式によって限定したものであることが窺われるが、その特許請求の範囲の記載からみて、該条件式は本願発明を限定する極めて重要な要素となっており、本願発明の内容は該条件式によって規定されているものということができる。このような発明にあっては、条件式が発明の内容を実質的に規定しているものであるから、一般的には条件式の変更すなわち発明の内容の変更を意味するものであり、したがって、条件式を変更する補正が要旨の変更でないといい得るためには、補正前の条件式が補正後の条件式の誤記であることが当初明細書の記載から自明であることが必要である。しかるに、前認定によれば、本件補正にあって、当初の条件式が誤記であることが明白であること自体は認められるものの、当該条件式として本来いかなる式を記載すべきであったかについては、当初明細書の記載からは必ずしも具体的に明らかではなく、また、補正後の条件式又は補正後の条件式の基礎となった薄肉球面単レンズ用フラウンホーファー条件式がレンズ設計に関係する当業技術者間において従来より周知であるとは認められないところから、補正前の条件式が補正後の条件式の誤記であることが当業者にとって自明であるとまでは認めることができない。したがって、本願補正は発明の要旨を変更するものとして許されないものと認めざるを得ない。

なお、原告は、本願発明は実験によって非球面レンズのコマ収差を除去する設計データを得た段階において発明はほぼ完成しているので、当初の条件式は発明の本質に影響しない旨主張するが、発明を設計データそのものに限定し、特許請求の範囲にも該設計データをそのまま記載している場合であればともかく、本願発明は、特許請求の範囲の記載からみて、発明の内容を条件式によって規定し、設計データは該条件式を満足する単なる例示としているものであることは前認定のとおりであるから、上記原告の主張は採用できない。

(4)以上によれば、本件補正は願書に添付した明細書の要旨を変更するものであるとした審決の認定判断は相当であり、これを取り消すべき違法はみあたらない。

4  よって、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松野嘉貞 裁判官 濱崎浩一 裁判官 田中信義)

別紙

〈省略〉

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